OCA TOKYO BLOOMING TALKS 037

人生における運命と選択

Released on 2022.06.17

OCA TOKYO BLOOMING TALKS

BLOOMING TALKS

自然体でテーマと向き合い、出会いに感謝し、相手を思いやりながら、
会話が咲く。笑顔が咲く。発見が花開く。

そんなコンセプトでお届けするOCA TOKYO限定のWEBメディア。
「BLOOMING TALKS」

新鮮な出会いと、魅力ある人たちの言葉を通じて、人生を謳歌するヒントを発信していきます。

新しいこの場所で、きょうも、はなしを咲かせましょう。

寺田倉庫の代表取締役社長でOCA TOKYOメンバーの寺田航平さん。ビットアイルの創業者としても知られており、ビットアイルの事業を引き渡した後には家業である寺田倉庫に戻られ、天王洲アイルにおける新たな街づくりなどを推し進めています。まるでIT・デジタル化といった時代の流れが、寺田さんを寺田倉庫へ、そして天王洲という街へと引き寄せたようにも感じられますが、これまでの人生における運命とその選択を寺田さんご自身はどのように捉えていらっしゃるのか。貴重なエピソードの数々とともに、そのお考えに深く迫ります。

どんな生き方をすれば、死ぬときに自分は幸せだろう。

── まずは寺田さんのこれまでの人生を振り返られて、改めてご自身の中で印象に残っているエピソードなどを伺えますか? 社会人になるまでは、キャプテンや委員長といったリーダーとしての役割を果たしてきたことは、ほとんどありませんでした。一方で、オーナー系企業の三世として生まれたこともあり、そういった部分を揶揄されることに少し嫌悪感も持っていて。だからこそ社会に出たばかりの頃は、「父親の会社になんか絶対に行かない」と、つっぱった考えも持っていたんです。そんな自分も社会に出て、いろいろな仕組みを知っていく中で、多くの企業が後継者問題やマネジメント問題を抱えていることを知り、寺田倉庫に入社することを決意しました。それまで6年半ほどお世話になった三菱商事を1999年の9月に退社し10月に寺田倉庫に入社したのですが、その半年後には寺田倉庫を退社して起業。ビットアイルを創業することになります。

── 起業という決断に至った経緯についてもぜひ教えてください。 私が寺田倉庫に入った頃は、世の中がITバブルに入っていく時代。もともと小学生の頃からプログラミングをするなどPCや通信に対して関心が高かったこともあり、「これからの時代は、モバイルの流れがより鮮明になっていくぞ」「ITを使ったサービスがどんどん伸びていくぞ」という思いを強く持つようになっていきました。もちろん、寺田倉庫の社内でやるという選択肢もゼロではありませんでしたが、事業計画を自分なりに組み直していく中で、現実的に10年間で500億円くらいの投資をする必要があったこと、そしてそれを当時の寺田倉庫だけで実現することは難しいだろうと判断したことも、起業に踏み切った要因です。つまりは、他人の資本でビジネスを立ち上げ、上場を目指していくことが最善だと判断したわけです。

── その後、ビットアイルは右肩上がりの成長を続けていきますが、寺田さんの想定通りのストーリーだったのでしょうか。 そんなことはありません。それこそ起業したばかりの頃は、90社中57社連続で投資を断られることもありました。今思えばよくくじけなかったなと(笑)。ただ結果としては、そういった投資家たちとの壁打ちによって、ビットアイルのビジネスモデルがどんどんブラッシュアップされていったという事実もありますので、やはり必要な経験だったと思っています。2000年~2003年くらいまでは試練の時代が続きましたが、そこからはどんどんお客様が増えていき、2006年には今でいうジャスダックに上場。その後東証一部へ上場することもできました。そして2015年には、世界大手のエクイニクスから、非常に高いプレミアムでのTOB提示がかかりました。ここで真っ先に考えたのは、ディールが成立した際の従業員たちの行く末。従業員は私にとって家族のような存在でしたので、「全員の笑顔を見るまでは出ていかない」と宣言し、結果としては2016年~2019年まで、3年半ほどPMI(ポスト・マージャー・インテグレーション)の立場でエクイニクスに残りました。そして落ち着いてきたタイミングで、寺田倉庫に戻ることにしたのです。

── なぜ再び寺田倉庫に戻ろうと思われたのでしょうか。 もともとビットアイルのビジネスモデル自体、その約半分が寺田倉庫のアセットを再利用したものでしたので、会社のオーナーシップを手放したときに、「やはり寺田倉庫のビジネスを継承することが自分の運命かもしれないな」と思えたことが最大の理由です。当初、家業は継がないと思っていたところから考えが変わったのは、自分の人生観、言わば「どんな生き方をすれば、死ぬときに自分は幸せだろう?」と考えるようになったから。その中の答えのひとつが、「自分にとって近しい大切な人たちと濃い関係を持ち、その人たちに賞賛してもらえること」だったんです。そんな生き方を実践していきたいと思ったこと、そしてこれまでに先代・先々代が積み重ねてきた志を引き継がなくていいのか?と自問したことも、家業へと戻る決意につながりました。

お預かりする資産に、DXというスポットライトを。

── 今後、特に寺田倉庫として力を入れていきたいことは何ですか? 大きく分けると2つの軸があると思っていて、1つ目は、“お客様からお預かりしている大切なアイテムにいかにスポットライトを当てていくか”という領域です。我々は様々な種類のアイテムをお客様からお預かりしていますが、実際にすべてのアイテムを「見える化」することに今現在は注力している最中。具体的な事業内容としては『minikura』などがまさにその例で、オプションでお預かりしたアイテムを1点ずつマイページで管理できて、さらにクリーニングやヤフオク出品などの便利なオプションも利用できます。 他にも、オンラインでアートコレクションの一元管理ができる『TERRADA ART STORAGE 作品単位保管プラン』などもあります。

── 保管・保存事業のDX化を推し進めているわけですね。 その通りです。DXによるモノの流動化を実現することで、将来的にはお客様のモノがより活かされる世界が来るでしょう。お預かりしたモノをデータ化し、データ化したモノを活かせる環境をつくり、実際に流通させることで新たな価値を生み出す。それが寺田倉庫の実現したい未来像の1つです。そうなれば、「預ける」という概念やその目的自体が変わることにもつながると考えています。

── では、寺田倉庫がチャレンジしていきたいもう1つの軸とは何でしょうか。 もう1つは、これまでに寺田倉庫が行ってきた「空間に付加価値をつける」というところからさらに転じて、イベントやそこに付随するサービスといった“コトを起こす”という領域です。例えばアートに関して言えば、実際に天王洲ではコレクターのアートを展示するミュージアムをつくっているほか、若手アーティスト支援のために作品の発表および販売ができるカフェもあります。「アート」というキーワードで一日中楽しめるような場を寺田倉庫が天王洲アイルにつくる。そうすることで、アート活動をサポートする様々な仕組みがこの場に集い、街全体が潤っていく。そんな街の姿を目指しています。新たな風を呼び込み、その街の土と併せることによって、土地に根づいた街づくりを推し進めていきたい。人々が訪れ、活気が生まれ、エリアの価値が高まり、いつも楽しい。そんなサステナブルな街をつくりたいのです。これは、我々がこれまで天王洲で取り組んできたことの延長線上に答えがあるものだと思っています。

運命を受け入れ、全力で未来を追いかける。

── 時代の流れが、寺田さんを寺田倉庫に、そして天王洲という街に引き寄せたようにも感じられますが、ご自身の感覚としてはいかがですか? ターニングポイントとも呼べるようなシーンはこれまでに何度かありましたが、今思い返せばという観点も含めて、人生の分岐路に立ったときは常に新しい挑戦を選んできたと感じています。寺田倉庫に入るという決断、その半年後には起業するという決断、TOBで会社を譲り渡して再び寺田倉庫に戻るという決断もそうです。

── 時を得ると言いますか、その時々で決断をされてきたと。 その通りです。そもそも何か大きな決断をするチャンスに巡り合った際、そのチャンスを自らつかみにいけるかどうかがとても大事だと思っています。私の場合、その意識がずっとマグマのように溜まっていたように思います。生まれ育った環境の恩恵ではなく、自力で何かを成し遂げたい。ずっとそう考えていました。最初に寺田倉庫に入った後、わずか半年ほどで起業したのは、まさにその表れでもあったように思います。逆にその後、様々な経験を重ねたことで、今度は寺田倉庫をより大きくしたいと思うようになった。もしかしたら、自ら選択してきたように見える一方で、運命という見えないものに引き寄せられたのかもしれない。ただ、未だに一度も「あっちを選んでおけば良かった」と後悔したことはありません。すべては必然の積み重ねで、それさえも運命なのであれば受け入れて、その未来を全力で追いかける。そんな気持ちこそ、実は大事なことだと思っています。

仕事も家族も自分自身も、常に心地よいバランスで。

── 「エリア×事業」という観点で、寺田さんはOCA TOKYOをどのように見ていますか。 丸の内といえば、やはりオフィス街のイメージですが、人の動きが活性化するためにはオフィスだけでは物足りなくて、何かしらの仕組みが必要です。そういった意味でOCA TOKYOをはじめとする三菱地所の様々な取り組みはとても興味深いと思っています。特にOCA TOKYOのように、様々な業種の人たちが集結する場というのは非常に珍しいですし、全国的に見てもかなり上質なコミュニティだと思いますね。今後、自分も含めメンバー同士のコミュニケーションがより活性化していく仕組みが生まれることに期待しています。例えば、OCA TOKYOというコミュニティの中で新たなサブコミュニティをつくれるような、それこそインターネット上のような自然発生的な仕組みができたら面白そうですね。他のプライベートクラブとの圧倒的な差別化という観点も含めて、そういった期待感はとても大きいです。

── ありがとうございます。最後に、寺田さんの考える人生を謳歌するために大切にすべきことや、心掛けるべきことを教えてください。 私の場合、自分にとって一番心地よいバランスで、仕事や家族や自分自身との関係を築くことが、人生を謳歌する上で重要だと考えています。言い換えるなら、一番心地よいポジションに自身を置き続けるということですね。そもそも、人生そのものがそのバランスを探す旅だと思いますので、最後に自分の人生を振り返ったときに、「素晴らしい人生だったな」と思えるバランスを探し続けることが、人生の謳歌にもつながっていくのではないでしょうか。

寺田 航平

寺田倉庫株式会社 代表取締役社長

1993年、三菱商事株式会社入社。2000年に株式会社ビットアイルを設立し、2006年に大証ヘラクレス市場(現JASDAQスタンダード市場)上場、2013年に東証一部上場を果たす。2015年、米Equinix Inc.のTOBを受け上場を廃止し、エクイニクス・ジャパン株式会社取締役COO就任。2018年、家業である寺田倉庫株式会社の取締役社長に、翌年には代表取締役社長に就任し、現在に至る。また、経済同友会幹事、株式会社コウェル代表取締役会長兼社長CEOなどを務めるほか、個人投資家としても多数のベンチャー企業にてアドバイザーを兼任。

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